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「命」・・・

誰ですか、ポーズを取っているのは、はははっ

イノチ

“イノ”はさておいて “チ” はカミを示します

それも、さておいといて

命は、生ある物を示すのであれば
わざわざ生命とすると

生きている生(セイ)在(ア)る者となり、可笑しい、ククク

とは思いませんか


セイとイノチ、せいといのち、生と命

この関係性について 考えたこと ありませんか

命は、それだけでは、生きてはいない(とでもいうように・・・)
だからこそ、生命という言霊はある

命とは

物質とは違うのだろうか
現象とは違うのだろうか

実は、そうは違わないのです

そして、そこに「生命」の意味の深味があります

命が物質だとすると、生は現象とも言えます

生命とは、物質の活動現象と観れないでしょうか


生きるということは、単純に言い切れば
何かを自主自発に活動すること

つまりは活きるということが、生きるということ

この世に生まれて来て
この世に生きるということは
すなわち活きること・・・だということに、気がつくか否か

この世に存在するということは、活きる意義を探すこと・・・

に他ならないし、違いない・・・

ということに、気がつけるか・・・


などと想うのは、少々屁理屈に過ぎるのか
それとも哲学的に過ぎるだろうか

いいや、只の酔狂行者の戯言かもしれませんね
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「行」とは何か・・・

はては、

哲学的に考えるか

それとも宗教的に、いや信仰としてか・・・


修験者と山伏とは同じであろうか

ははは、読んで字の如し・・・とすれば
修験者は、「験(しるし)」を修めたものと言える

では山伏は、単に山に伏すモノのことなのか

うーん


瀧山の道は、その山伏達が拓いた道です

登山とは、基本として足(脚)で山を登るもので
手は余り積極的に使うものではない
いや一日歩いても一度たりとも使わ無いことのほうが多いと言い切れる


斜度が45度を越え、垂直に近くなるにつれ
人間の人体構造では
もはや足(脚)だけでは、登れなくなる

手を使いはじめ、それが繁盛になる時
三点支持という言葉が注意喚起として使われ
「登山」は、「登攀」という字に変わる


山を駆け巡る仙人修行の行者にしても
密教僧にしても
そして現代の登山者にしても
それは変わらない
そこでは1300年以上に渡って変わらず繰り返されてきた行為なのです

そしていよいよロープという道具のお世話になることに
「恥だなあ」などと、まったく感じない状況が続くと
それはもう登山ではなく、登攀の段階であると言っても過言ではなくなる

前瀧コースは、瀧を越える辺りからは登攀で山頂の祠を目指す道なのです

つまり垂直に山に突っ伏すしかない
まったくそれは山伏そのものなのです


山歩とした今回の瀧山の企画は
そういう振り返りを持って観ると「行歩」にカテゴライズしても
何ら異論はないでしょう


さて今回の瀧山で、どんな「験(しるし)」に近づくことができたのか
それは皆さんそれぞれの胸の内ということで、ははは

また来季に行歩入門として登攀しましょう


160mのロープ登り、大瀧コースにも挑戦の予定です

先日、10、11日と飯豊山に行ってきました

スタート時は、まずまずの天気、途中から雲の中に突入し雨具を着込む、1900m付近から雪となり、本山小屋に着くと本降り、夜半からは吹雪
数メートルしか離れていないトイレに行くにも命懸・・・何も見えない・・・ホワイトアウト・・・

ダイグラ尾根を10時間、翌日、下りにはダイグラ尾根を使うのは、天候上危険と判断し梶川尾根を下山、歩くこと11時間、途中日没となりヘットランプをつけての行動、まさに行歩となった飯豊酔狂行者3名プラス道連れ同行の若者1名でした

その飯豊・・・

東北人にとって飯豊、そして北隣の朝日は、何やら特別の山のように思います
その「何やら」は、皆、自分自身もわからないまま、とにかく「何か」に対して感情を移入している

そんな御山様のように感じます

その「何か」とは・・・

イイデの、イはエとの中間の発音で、エエデと言われていました

エエデというのは、アイヌ語(縄文語の説もあります)で、
「尖がった(円錐状の)山であってカミの住むところ」というような意味を持っています

飯豊山を新潟方面、エブリサシから眺めると、巨大な円錐状の御山様に観えます
いつか機会がありましたなら確認してみてください
大日を含めて飯豊連峰が一望できます

朝日連峰の大朝日も小朝日も綺麗な円錐状の御山様です

東北では、大なり小なり尖った円錐状の御山様を、いにしえから信仰の対象としてきましたので、その名残りとして今も多くの祠が残っています

また東北の山には、「森」とつく山が数えきれない程多くあります
特に宮城から北に多くあります

このモリは、アイヌにとって「大きな木のある小高いカミの住む土地(オカ)」というようなニュアンスを持っています
いわゆる「鎮守の森」と考えると理解しやすいですかね

少し時代が新しくなりますが、エミシ(蝦夷)と呼ばれた東北の山岳民族は、大岩を信仰していました

岩木山や、岩手山などは、御山様なのですが、岩神様でもある代表的な例です

アイヌから引き継がれた、そのモリとイイデの関係性、そしてエミシの岩信仰・・・
そこに大陸からの仙道思想、魂魄思想が入ってきて「ミ山とハ山」という東北人独特の民間山岳信仰を生みだします

ミには、「深」や「御」の漢字をあて、ハには、「葉」、「羽」、「端」などをあてたりします
つまり漢字が輸入される以前の信仰だったのですね

人が死ぬと里に近い先の尖った円錐の小高い山、つまりハヤマに埋葬します
3年をかけて、魄(身体)が大地の土に還って行きますと魄から魂が離れてミヤマに登って行く・・・
魂は、山頂上付近にある大岩の裂け目から霊界に入る

人が生まれるということは、その土地に生まれた魄に
ミ山の岩の裂け目から魂が出て、母の胎内に入り込み
そして命が誕生する、つまりこの世にイデることなのだと考えていました

生命の神秘、母の胎内と岩の胎内
今も胎内くぐりと名を持つ岩場は多くみられますね

イイデは、この地方の神聖なるミヤマなのです

生命の誕生の魂ロードは、新潟方面であれば
イイデの山頂の岩群から地神、カイラギなどの峯を渡り、エブリサシから胎内(地名)へ降り生まれイデるべき土地と母の胎内に向かうのです
福島方面では、ご秘所岩からイデていたのかもしれません

そんな信仰の記憶が、「何か」であって、飯豊山にたいする畏敬の念なのかも知れません

それとこの魂の循環性と大日のような、太陽信仰は、どこかエジプトのピラミッドを連想させると

あなたは思いませんか・・・


※このKOH察は、KOHのオリジナルです

 

霊性という言葉
どお思われますか

ひとつ紹介させていただきます

WHO QOL/SRPB 最終版における下位項目

絶対的な存在とのつながりと力
人生の意味
畏敬の念
統合性・一体感
スピリチュアルな強さ
心の平安・安寧・和
希望・楽観主義
信仰


 

世界保健機関(WHO)は、スピリチュアリティの定義を概念的に明確化するために
 1998年からWHO Quality of Life (QOL)の
Spirituality Religiousness and Personal Be1iefs(SRPB)調査票を開発するべく
さまざまに異なる文化圏のなかで
適用可能なスピリチュアリティの概念構成に関する国際調査研究を開始した

 世界5大陸をカバーした
18か国での
2年に及ぶ
質的調査・量的調査の結果
2002年にWHO QOL/SRPB調査票は
上の表に示す8つの下位項目で構成されることが明らかになった

 同調査票は,その8下位項目に
おのおの4つの質問が含まれ
合わせて32項の質問から構成されている

というように
世界保健機関は
霊性の存在の定義を進めているのです

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