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「白」と「黒」・・・「しろ」と「くろ」の話「つづき」です

色彩に、この「白」と「黒」は、含まないという説があります

そのあたりの話からはじめます


●RGBとCMYK

私達が色を認識するのは、自然界に存在するそのままの原色と、人が作り出す人工の色があります

色を人工で作り出す方法は、大きく分けて

RGB方式 と CMYK方式 があります

RGBは、光の三原色の頭文字です

 赤(RED)
 緑(GREEN)
 青(BLUE)

の、ですね

CMYK は、

 藍色(CYAN)
 深紅色(MAGENTA)
 黄色(YELLOW)の頭文字と
 黒(BLACK)の尻?文字の K です

この二つの方式は、

RGB方式   テレビやパソコンやデジカメの液晶パネル
CMYK方式 プリンターでの印刷

などに利用されています


●RGB

RGBでの「白(しろ)」は、#FFFFFF です

光の三原色を、全て合わせると、白になります

なので全ての色が存在するという捉え方ができます

一方の黒は、光の組み合わせでは作れません

「黒(くろ)」は、#000000なのです

数字は、零(ゼロ)からはじまる(という先入観的概念を持っている)ので、黒からはじまり白で終わるとも云えそうです

RGBでは、

「白(しろ)」は、無限
「黒(くろ)」は、零(ぜろ)

といったところでしょうか

ちなみにRGB番号の#は、16進数であることを意味しています
極めてデジタル的です

そのRGB番号の#000000・#111111・#222222・#333333~#999999・#AAAAAA~#FFFFFFの全ぞろ目の番号は、

 黒←→灰←→白 なのです

このことから観ようによっては、「灰=グレー」の濃淡の極端な位置にあるのが、「白(しろ)」と「黒(くろ)」とも結論できるのです

ちなみに
赤は、#FF0000
緑は、#00FF00
青は、#0000FF
なんですよ

おもしろいでしょう・・・面白い・・・にも「しろ」が入っているのもなにやら・・・・意味ありげです

「はいる」も「灰」るともみれますしねえ

RGB方式では、全ての色彩は、黒と白の間に存在するとも云えるのです


●CMYK

もう1つの色の表現方式であるCMYK は、

藍色(Cyan) 深紅色(Magenta) 黄色(Yellow) 黒(black)

を混ぜて色を出す方法です

言い方を変えると、絵の具の三原色である CMY に、美しく印刷するために黒を加えたものです

「黒(くろ)」は、CMY の三原色すべてをうまく(実際には黒というより濃い灰色のような感じです)混ぜ合わせると作れます

では「白(しろ)」は?

絵の具には、白があますが、CMYK では基本的に白インクは使いません

ではどうするのかというと、印刷する紙の色が白です

つまり何も色を塗らなければ「白(しろ)」です

CMYKでは、

「白(しろ)」は、無(む)
「黒(くろ)」は、全て


といったところでしょうか

※余談ですが、色紙に白を印刷する場合は、白いインクの使えるプリンターが必要です
金や銀も同じですが、そうなると業務用のプリンターのレベルですね

●RGBとCMYKのまとめ

RGB では、すべての色があるのが「白(しろ)」、何も色がないのが「黒(くろ)」
CMYK では,何も色がないのが「白(しろ)」、すべての色があるのが「黒(くろ)」

2つの表現方式で、まったく逆になる
なんとも不思議な世界です

それともうひとつ大きな観点ですが

RGBは、光という掴みどころのない物、いや光はそもそも物なのだろうか・・・

まるで「虚」のようです

一方のCMYKは、実にアナログ的で、物として十分に触れることができる

「実」ともいえます

           RGB(虚)   CMYK(実)   
「白(しろ)」    無限      無(む)      何も無くて、無限であるもの
「黒(くろ)」    零(ぜろ)    全て        零(ぜろ)であって、全てであるもの      

あれ、是って・・・と閃いた方いますかねえ

ははははっ、閃かないかた、すいません

なのにまたまた「つづく」です 

 

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唐突ですが「白」と「黒」・・・「しろ」と「くろ」の話を書きます

犬の名前ではないですよ、はは

そして「しろ」と「くろ」の話は、取りかかりであって本題ではないです

では、はじまりはじまり・・・


●「いろ」の話

「いろ」の話を少し書きます
 
「いろ」の語源は、血の繋がりがあることを表す「いろ」であったとされていいます

いろせ 兄
いろと 弟
いろね 姉
いろも 妹

それがのちに
「男女の交遊」や「男女の愛情」を表したり
「女性の美しさ」を称える言葉となった
さらに、
「美しいもの」という意味から
「色彩」と変化した・・・とされています


●「ろ」がつく共通性

色彩をあらわす和色名は、「あか、あお、みどり、きい、ちゃ、むらさき」のように「いろ」がつきません

「茜色=あかねいろ」や「山吹色=やまぶきいろ」のように、他の名詞を利用した場合は、「いろ」がつきます
ちなみに「山吹」は植物です

「しろ」と「くろ」には、偶然なのか語尾が「ろ」です
他の色には、ないのです
(あったら教えてください)
 

●極端

「しろ」と「くろ」と云えば、「はっきりさせろ」のセリフ

物事を明確にしたい時に使います

つまり対極にあるのが「しろ」と「くろ」

対極と云えば、「陰」と「陽」

さらに「陰陽」とくれば、対極と読みが同じでも「大極」ときて、大極図、陰陽図を想い起こします

そして大極図、陰陽図は、白と黒

と、かなり強引な展開(はははははっ)


●それぞれの語源

「しろ」の語源は、白は、形容詞「白し(しろし)」の語幹だとされています
しかしこれでは、当たり前過ぎですし、語源とか由来とか云えませんね
「白」とは、そもそもなんなのかがわかりません

では、「くろ」は・・・

定かではありませんが「暗い」、「暮れる」などと関係するとのではないかとされています

この説にKOH察を加えてみますと

「くらい」と「くれる」に共通するのは、「く」にプラスして「ら行」の一部

「ら行」の一部に「ろ」もあります

なので、「くらい」が「くろい」に変化した?のかもしれません
 

●もうひとつの「しろ」と「くろ」

素人と玄人

「しろおと」と「くろおと」

もうひとつの「素=しろ」と「玄=くろ」

白と黒の語源は、いまひとつ明確ではありません
その解明に大胆にも言語学のど素人の私が・・・というような使われ方の「素人」の「しろ」

この「しろおと」と「くろおと」の「しろ」と「くろ」と色彩の「しろ」と「くろ」、音が同じだけというだけではない、何かひきつけられるものを感じます

「素」は、「元素」、「物の素」で原料の意味です

「玄」は、玄はあ?・・・・・・「玄米?」

どんな意味があるのでしょうか・・・辞書に頼りましょう

「絶対的、真理」とあります

う~ん、「玄米」は、「絶対的、真理の米」という意味になりますね、驚きです

もし仮に「白」と「黒」の語源が、「素」と「玄」ならば

「白」は、「素」、「原料」などと理解でき

「黒」は、「絶対的、真理」ということになります
 

と、なにやら胡散臭いウンチクを書いてきました
ここまででは、何が書きたいのか、何を云いたいのか、つまりは何を伝えたいのか
さっぱりわかりませんね、すいません

なのに「つづく」です 


「暴力」

殴る蹴るだけが「暴力」ではないです

物を投げつける

怒鳴る

無視する

威圧する

それ以上に、言葉の暴力は、身体への暴力より根深い影響を与え、陰湿で酷い

また相手の名誉を「傷つける」、「誇りを奪う」ことも暴力と云えます

 

ところで、その「暴力」の反対の言葉ってなんでしょうか、考えてみたことありますか

・・・・・・・・・・・

「非暴力」でしょうか・・・・

それは暴力を否定することでしかないように想います


「暴力」とは、「暴れる力」です

「力=ちから」・・・そうです、“ち”が含まれているコトタマです

まあ、それはいつものように、ハハ、おいといて・・・

「暴力」には、力(ちから)が含まれている、というより力(ちから)そのものです


暴力の反対の言葉が、何か

山彦恵方流に「愛」とか「慈悲」を充てたいと想います

暴力に対抗しうる言葉として、「愛」、「慈悲」・・・

いかがでしょうか、ご賛同いただけますでしょうか

「はい」・・・いただけますか、それは良かったあ、ありがとうございます

「愛」とか「慈悲」には、力という文字はありません

なのに「暴力」に十分に対抗しうる、いや、十二分にそれを包みこむ“ちから”を持っている

力には、力を持って制しようとする行為が、いかに愚かなことかを暗示しているように想いませんか


●余談
アメリカは世界のポリスだと豪語し、軍事力を世界各地に配備し、そして行使しています

それは 「力」 の反対語が、結局のところ 「力」であるということを意味しているように感じませんか

「力」VS「力」は、どれ程の綺麗事を述べようとも、「暴力」VS「暴力」の構造なのです

キリスト教の、「愛」と「慈悲」の精神は何処にいったのでしょうか

テロを軍事力で封じ込めるというのは、一見正しいように思えますが、果たして「力」VS「力」に他ならないのです

「核の放棄宣言」を行った大統領オバマ氏に、「愛」と「慈悲」の求道者として指導力を発揮していただきたいものです

 

 

「土」の流れです


大地は、「だいち」で、「おおいなる“ち”」です

大きな精霊というコトタマです

大地は、多くの民族の共通認識として「大いなる母」、「母神」、「母なる精霊」です

これまた意訳的には、「おおいなる母なる精霊」が「だいち」です


その大地の大分部は、現実として地球の冷え固まった岩や石という物質です

土は、ほんの少しの表面にあるだけです
全ての土を集めても、この地球の地表を覆うに足りず
大地に敷いても数センチにしかならないとされています

その土が、大分部、生物の死骸であることを・・・忘れていませんか

木や虫、植物や動物、そして私達人間もなにひとつ例外なく皆、土に還ります

それが自然でした
大いなる地球の法則でした

現代社会の規範に従って私達日本人は灰にされてしまいます
できれば大いなる地球の法則どおり、土に還りたいものです
まあ灰になったとしても物質の循環としてみれば、地球の一部で在り続けることに他なりませんが

土とは、本来、あらゆる生命を支える食物連鎖のベース(根源)でした

土に種が降り、そして芽を出し、食べる・・・食物連鎖

全ての生命の物質の部品は、土から出発して、最後に、土に戻るのです

人間の身体も、他の生命を体内に取り込み、変化させて構成している
そのことを絶対的に否定できません
全ての生命は、土の変化とも云えるのです

一握りの土を手にする時、このような生命の循環に想いを巡らせて観ることで森羅万象の神秘を実感するのです


●余談
アメリカンインディアンが、大地に裸足で立ち、祈りのダンスをするということの本質を理解していただけましたか
水の循環も同じようなこと、そして火の意味につながるのです

「地に足を着ける」ということ・・・

「ち」とは精霊をあらわしているコトタマです

「地」は、「土地」のことです

コトタマとして観ると「土ち」であり、「ち=精霊」を包括しているのです


つまり「土地」とは、「土に精霊がいる」ということをあらわしているコトタマですです

意訳的になりますが、「土は精霊がいる場所」という表現が「つち」です

「地に足を着ける」ということは、「土の精霊と繋がる」ということなのです



●余談

練功の基本動作時に氣を足から取り込むイメージと説明していますが
本質は、この生命の根源のひとつ
「つち(精霊)と繋がらせてくださいね」
「力を分け与えてくださいね」
という行為(儀式)なのです

もちろん母なる大地への感謝の気持ちも込めてですね
これはアメリカンインディアンのメディスンマンやシャーマンの思想にも共通します
土に座ることの意味も同じようなところに本質があります

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