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「地に足を着ける」ということ・・・

「ち」とは精霊をあらわしているコトタマです

「地」は、「土地」のことです

コトタマとして観ると「土ち」であり、「ち=精霊」を包括しているのです


つまり「土地」とは、「土に精霊がいる」ということをあらわしているコトタマですです

意訳的になりますが、「土は精霊がいる場所」という表現が「つち」です

「地に足を着ける」ということは、「土の精霊と繋がる」ということなのです



●余談

練功の基本動作時に氣を足から取り込むイメージと説明していますが
本質は、この生命の根源のひとつ
「つち(精霊)と繋がらせてくださいね」
「力を分け与えてくださいね」
という行為(儀式)なのです

もちろん母なる大地への感謝の気持ちも込めてですね
これはアメリカンインディアンのメディスンマンやシャーマンの思想にも共通します
土に座ることの意味も同じようなところに本質があります

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登山者が口にする「百名山」とは、深田久弥氏の著書『日本百名山』にて、彼がその本に掲載した百の山のことだと云って異論を唱える人はまずいないでしょう。

その百座は、あくまでも深田久弥氏個人が選んだ山であることに、否定できない特異性があります。

私は、登山というと単に百名山にのみ注目が集まることに、多少の違和感を持つ派です。
そこで臍が曲がっていることを十二分に認めつつ「深田百名山」と呼びたい気持ちが強くなるのです。

臍は曲がっていても、深田氏によって選ばれた百座の御山様が、「それは違うでしょ」という難癖をつけれるようなハズレがないのは事実です。
見事なまでの名山揃いに感服させられます。

多少の違和感というのは、飯豊連峰であれば、その最高峰大日岳がいい例なのかも知れません。

大日を飯豊山側、御西小屋辺りから観たお姿の荘厳さは、「むしろ飯豊山以上のものがあるなあ」と感じるのが正直な気持ちです。
しかし飯豊山をえぶり差しから眺めると、その山塊の巨大さと尖がった円錐状のお姿に、深山信仰の条件へ合致するのを素直な畏敬の念を持って覚えるのです。

飯豊山と大日岳・・・もし私がこの飯豊連峰から一座を選択するのならば・・・やはり大いに迷います。

そしてそれは深田氏もそうだったのだろうと自身に還るのです。
彼は、飯豊山を百座の一員として選んだ。
その結果、飯豊連峰の首座たる御山様は・・・それは、飯豊大権現の坐(おわす)飯豊山と誰もが認めるところとなっているのです。

不遇の大日岳・・・でしょうか。

大日岳は、かの大日如来名を戴く御山様です。
当然信仰の対象でもあったでしょう。
しかし飯豊山の講のように民衆とともにあったという信仰の形跡があまりにも薄いのです。
頂には、祠も社もない。
それは新潟の気候の厳しさがあったからかも知れません、がしかし、それを云ってしまっては、他の御山様にお叱りをいただきます。

深田氏は、選択の基準のひとつに「歴史」を上げていますが、それは山岳信仰の歴史に他ならないのです。

山伏の修験の場という厳しさに一般の民衆が容易に近づくことができない名峰の御山様もあったでしょう。
彼が着目したのは、そういう特殊な信仰より、むしろ民とともに在った在野精神的な心の拠り所の信仰の御山様を選んだように思われます。

百名山ピークハンター(失礼)が飯豊を訪れる際、大日岳は、無視することのできない登山対象となっています。
もちろん飯豊連峰の最高峰という単純な理由もあるでしょうが、そのお姿そのものに大きな魅力を秘めています。
その証拠に、と云っては大袈裟かもしれませんが、早朝ヘットランプの列が大日へと続くのです。
ご来光を拝もうと大日に向かう山人の多さは、飯豊山をはるかに凌いでいると想います。


結局、飯豊に来る山人は、大日岳を無視できないし、目指さずにはいられないのです。

そこまで深田氏が計算しての選定なのであれば・・・と想いが巡ると、それは凄すぎると想えて来ます。

さらにそう想うと・・・。
はてやもしやという想いが頭をもたげます。
深田氏が民衆に密着した深山(みやま)を選択したことは事実。
ということは、私達は、知らず知らずのうちに、いや意識の他で、深田久弥氏が、これぞと選りすぐった百座を登るということが、すなわち「深山百座を回峰をしていることなんだ」となります。
あるいは日本百奥院詣での巡礼をしていると言ってもいいですね。


古代、自然信仰からはじまったとされる山岳信仰、そして仙道の行者、密教の修行僧、山伏が修験の為に拓いた道を歩いている。
いや歩かされているのかも知れません。
これが彼の隠された真意、願い、狙い・・・なのだとすれば、深田百名山は、「御山様をつうじての『霊性復古』の為の、お百度参りの願掛け」を仕掛けたものと観ることも・・・できますね。

もしそうなのだとしたら、「してやられたり」です。
痛快な気持ちで大笑いするしかないなあ・・・「はっはっはっはっ波っ~」。

深田百名山・・・畏れ入りましたあ。


●11月02(月)行歩【古山伏道】仙台カゴ、最上カゴ、楠峰、白髭山
会費5,500 温泉なし
※急遽追加の企画です 仙台カゴ、最上カゴは藪漕ぎです
◆確定です→悪天で中止とします

●11月03(火)山歩【古山伏道】黒伏山周回(白森山、柴倉山、黒伏山の周回)
会費5,500 温泉なし
※沢渡林道側から入りますのでスキー場下の徒渉はありません
※急遽追加の企画です
◆確定です→悪天で水晶山へ変更して実施しました

仙台カゴと最上カゴと楠峰に藪を漕ぎに行く予定です

以前、[御所山の呼び名KOH察」
http://yamabikoehohnet.blog.shinobi.jp/Entry/34/
にて、以下のように紹介しました

月天森⇒最上カゴ
日天森⇒仙台カゴ
御前峰⇒楠峰
大峰(峯)⇒五所山⇒御所山
姥嶺⇒ウバ地蔵

(以上)

仙台カゴと最上カゴは、それぞれ月天森、日天森という古いお名前を持っています

月天は、月天子
日天は、日天子
ですが、この天子とは何かと進むと、少し難しい話になるので、ここではわりと馴染みのある

月光菩薩と日光菩薩と考えると良いでしょう

細かな説明は、省略し、菩薩名からも解るように

月天と日天、それは月と太陽です

東北のお寺さんに多く観られる三尊構成
その真ん中におらっしゃるのが
薬師という如来様であれ、聖となる観音様であれ

それは、実は、まあるい地球なのです

この地球に住まって居る私達にとって
なにより大きなもの(物質、物体)・・・

それは地球です

地球から見た太陽と月は、ほぼ同じ位の大きさ

そして小さいです

なので太陽も、月も、地球の為にある・・・と考えた人がいても、自然なことです
大きさのバランスから地球に従う付属的なものという観方です

その大きな地球の、大きな大地、大きな海
それは、いにしえから多くの民族のよって母に例えられてきました

母なる大地、母なる海

母なる地球

母・・・、だからこそ、この地球の全てのもの、現象の根源神は、女神なのです

如来様も観音様も女性らしいふくよかなお姿です

それは地球の丸さでもあり、女性のからだの豊満さを象徴しているのです

母なる女神は、地球のあまねくものの、命の誕生、命の死を司る根源神であり地球神なのです

命とは精霊とともにあること
そして生きるとは、その命を活かしている現象
死とは、その命を活かせなくなる現象

肉体の物質としての循環と精霊の循環をも包括し
地球に在る、全物質と現象の循環を司っている
それが地球神である女神なのです

一方の男神は・・・というと、宇宙の中心星、北極星
それが宇宙の中心神であり、全宇宙の神と、いにしえびとは、考えていたようです

※民族、時代時代の歴史によって、思想は異なります
 ここに書いたことは、あくまでも私観です、あしからず・・・

イノチ

“イノ”はさておいて“チ”はカミを示します

 それも、さておいといて

 と、以前
 『生命と命と活きること(
http://yamabikoehohnet.blog.shinobi.jp/Entry/51/)』
 で書かせていただきました


 その続きを書かせていただきます

 「いのち」のことを、沖縄では「いぬち」と云います

 沖縄のコトタマは、縄文の古語を残している・・・のではないかと言われています
 それがほんとか否かは、言語学分野の研究者にお任せするとして
 自分自身は、感覚的に賛同者です


 「いぬち」の「いぬ」は、古語では「いぬる」で「いる」という意味です
 「いぬ」は、身近なところでは、「犬」の元となったとも云われています

 漢字をあてれば「居る」ですかね
 自分の解釈では、「ある」が近いように感じます
 これも漢字をあてれば「在る」でしょうか

 前は、「「ち」は、カミを示します」としましたが
 この場合の「かみ」は、古代に存在していないコトタマなので便宜上使ったもので
 す

 「ち」は
 「霊」、「霊力」、「霊力あるもの」とか
 「精霊」、「スピリット」とか
 のイメージの方が良いと想います

 つまり「いぬち」は、
 「霊」と「居る」とか
 「霊力あるもの」と「居る」とか
 「精霊」と「在る」という現象を表現したコトタマと言えそうです

 少し脚色的な表現になりますが、「精霊」とともに「在る」・・・
 それが「いぬち」なのだとオイラ(老良)は、想いっているんです


 「生きること」は、すなわち「活きること」

 ならば「精霊」とともに「在る」この身(自身としての物質に宿りし霊)を活かす
 ことが、生きる(という現象の)こと


 はははっ、ややっこしい屁理屈話ですかねえ

 単純に云えば

 命とは、精霊とともにこの世に在ること・・・

 と言えますが

 いかが感じますでしょうカア(^◆^)

 

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